「昔は工房の裏にあるこの川の流水で生地を洗っていたのですよ」――そういってギャラリーのドアを開けると、すぐ裏にある川のせせらぎの音が間近に聞こえてきました。
ここは東京都新宿区落合(おちあい)。神田川と井草川(現在の妙正寺川)の2つの流れが合流することにその名が由来します。かつてはその川沿いに染め物屋がいくつも点在しましたが、今や数えるほどに規模は縮小。それでもここ一帯には染め物屋と染めに関する会社が点在しています。
今回は落合にある染めの老舗、二葉苑を訪問し、次世代の伝統の担い手に会ってきました。
2020年、創業100周年を記念して業態を変化させる
取材のこの日はあいにくの雨。西武新宿線の中井で下車、すると先ほどまで降ったりやんだりの小ぬか雨が、ギャラリーまでのわずか5分足らずの間に土砂降りの雨になっていました。蒸し暑さが増します。
染めの作業は天候や湿度で大きく変化します。それは染めつける生地のコンディションが大きく変わるためです。また染めの体験教室では猛烈な湿気のために生徒さんの作品がかびることも。というのも、体験教室は複数日にわたって行われることが多く、次の作業までに間が空いてしまうため、梅雨時期などはいくら管理していてもかびる可能性があるためです。
本業である染めに加え、染織の体験教室を運営することは多忙を極めます。夏の時期は自由研究の取材をかねて小中学生の体験などが増えるほか、体験教室のバリエーションを昨今は増やしています。
「訪日外国人のお客様も、嗜好はモノからコトへと変化しているようです。単にモノを購入するのに飽き足らず、体験することで染めの価値を知り、そのうえで購入するというケースがあるようです」。取材に応じてくれた広報の高市さんは、ここ4~5年の体験教室をめぐるトレンドを話してくれました。
モノの売れない時代にどのように商品を売っていくか。
二葉苑は2020年に創業100周年を迎える老舗の染め物屋です。従来の型染めにスクリーンを用いることで江戸更紗に進取の息吹を加え、芸術性を高めたことで知られています。
さらに工房を代表するのが「二葉ブルー」と名付けられた染め色。透明感のあるターコイズブルーを指すのですが、これは工房自らが語ったものではなく、呉服業界と呉服を好むお客たちの間でいつの間にか語られるようになり、呼称として定着した色なのだとか。
100周年を目前に控えた同社では、今年から完全に直販にその事業方向を転換しました。それまではどちらかといえば関連業者に遠慮して大っぴらに口にしてこなかった直販でしたが、ここにきて100%路線を変更し、下請け仕事から脱することに。その一方、これまでは本業の片手間仕事程度にしか位置づけられていなかった体験教室も、染め物屋事業の大切な事業柱として勘案しているようです。
バブル崩壊後、モノが売れない状況が続く呉服業界。さらにライフスタイルの完全な変化から、着物の世界もファストファッションの流れは止まらず、江戸更紗は高級な嗜好品として留め置かれる状況に陥ります。
ものが売れないこの時代、何をどのように売っていくのか。安くなければ売れないのなら、仕事を効率化して少しでも値段の跳ね上がりを抑制し、さらに「なぜ江戸更紗は高いのか」を体感してもらう試みを考えます。
仕事の効率化とはすなわちスクリーンを用いて型染めの効率化を図ることです。江戸更紗の制作工程は8段階もあるうえ、色挿しといわれる文様を型染めする作業は、文様にもよるものの、30枚以上もの型紙を反物に当てて染め抜くという手の込んだもの。
このため跳ね上がる作業工数を少しでも減らすと同時に作業精度の上がるスクリーンを用いての型染技法を駆使することにしたのです。
さらに高級な嗜好品として特別扱いされている江戸更紗を少しでも身近に感じてもらえるように、江戸更紗を使用した扇子やハンカチ、がま口、アクセサリーなどへの企画・販売も行います。その色彩の豊かさから通年で幅広い世代に訴求するものに仕上がっています。
「おちあいさん」の全面展開。高価なのには理由がある
直販への業態移行に踏み切った大きなきっかけは同社の推進する「おちあいさん」です。
「おちあいさん」は「落合産」をかけた染め物の地産地染地消の活動で、藍を落合で育て
それで染料を作り、落合で染め、身に着けてもらうというもの。スタートしてから5年経過し、さらに一層の浸透を目指しています。
現在は小学生や中学生の染織体験や工房見学などが定期的にある一方、一般の見学者も日時を決めて受け入れています。
染織体験教室の展開も「おちあいさん」活動の一貫で、体験の種類も豊富に取り揃えています。一日で終わる簡単なものから、反物1反を染め上げ、着物にまで仕立てる「染め教室」までバラエティ豊か。
体験を通じて染色の奥深さを理解すれば、おのずと江戸更紗の価値を理解してくれる――草の根的な活動が江戸更紗の普及へとつながっているのです。
「好きなこと」を追究している若き担い手にフォーカス。
染め以外の仕事をしている自分がイメージできない
井上英子さん
井上英子さんが二葉苑に染めの職人として入ってから12年を迎えようとしています。伝統工芸士は工芸ジャンルによって多少異なりますが、いずれも一定の就業年数に加え、組合や工房からの推薦、加えて実技試験などを経てはじめて認定されるというもの。
二葉苑では2020年の100周年記念の目玉の一つとして、彼女の認定取得を大いに期待しているところですが、本人はいたって無欲。12年を迎えようとする今も学ぶことばかりだといいます。染めの奥深さに魅せられているといってもいいでしょう。
東京造形大学でテキスタイルデザインを専攻し、在学中からスクリーンを使って自らデザインを手掛けてきた井上さんは、いつしか染色に没頭するようになります。卒業後、風呂敷などを染め上げる工房で6年ほど修業しますが、物足りなさを感じ始めます。ここには自分が表現したい型染めがない。それは、自分が染め職人としてしか生きられないということを知った瞬間でもありました。
折よく二葉苑での染め職人募集を知り、入社。スクリーンを使用して染めるという彼女のキャリアと、スクリーンを用いて染色の工程を効率化したかった会社の利害が一致します。
何より、江戸更紗は彼女の求めていたものだといいます。染めを任せられる今でも、いつも新鮮な気持ちで取り組めるとのこと。それは多くの仕事が陳腐化、ステレオタイプ化していき、漫然と仕事をこなす人が多い中、非常に幸せな経験をしているようにも思えます。
二葉苑のお客はかなり目の肥えた凝り性だと話を聞きながら感じました。紬(節のある絹物)をはじめ、紙布、芭蕉布など、染色するのには難易度の高い反物で、これでもかというほど難しい注文をしてくるようです。
素材によって染めの色は大きく変わります。また、小さな試し刷りを蒸しあげて上がった色が、時に指定された色とは全く違った色となって製品化されてしまうときもあります。
何より怖いのはお客の目。満足のいくまで染め直しすることも時にあるそうで、難しい注文に音を上げそうになることもあるそうですが、それでも乗り越えられたのは「染めが好きだから」という思いだけでした。
染め職人としての業務に加え、体験教室などでの指導も加わり、忙しい生活ではあるものの、テキスタイルデザイナーとしての腕を磨くことも余念がありません。自ら手掛けたテキスタイルデザインはSNSを行使して発表しています。
ここ最近になってようやくきものを自分で着付けできるようになったといいます。その結果、反物単体ではなく、着付けたときの美しさがイメージできるようになったとも。SNSでは彼女のテキスタイルデザインのほかに、彼女が手掛けた江戸更紗を着付けた姿を見ることも。会社のSNSも更新は彼女が担当。忙しすぎるこの頃は自分のSNSがおろそかになってしまうのが悩みの種のようです。
独学で進めた型染の探究が染め職人としての道を拓いた
澁谷健吾さん
二葉苑に染めの職人として入ってから6年を迎える澁谷健吾さんは異色の経歴の持ち主。染め職人になる前は特許関連専門書の出版社に長く勤め、型染は趣味の一つだったといいます。
もともと、型染に心惹かれていた澁谷さん、はじめのうちはデパートの呉服売り場で型染の反物を見たり、美術館を巡って作品を見たりしていました。それが高じて、時間を見つけては図書館に出かけ、書籍で型染に関する知識を養う一方、週末に染め工房を見学に訪れるという熱の入れように。伊勢型紙を求めて三重県まで出かけたこともあります。
高田馬場や落合のあたりが染め物屋でにぎわっていたことも、二葉苑に入社する前から知っていました。たまたま目にした二葉苑の染め職人募集の張り紙に、即入門の志をかため、退路をたって臨みます。
江戸更紗の名門である同社に入ってから思うのは、毎日が修業、勉強だということ。布に色を入れるときは地色とはいえ気の抜けない作業なのです。体験教室での活動も、同じ思いでいるそうです。実際自分の作った型紙で染めを教えているときは、型を何枚か落としても美しい柄になることを想定しています。短時間でも染めの楽しさと難しさが同時にわかるような型のデザインは、体験教室がなければ発想されなかったかもしれません。
澁谷さんは初めて自分の型紙で染めた小物を今も丁寧に使い続けています。シックな雰囲気漂う鮫小紋は染め職人としてスタートしたときの記念すべき作品です。生地がこなれて肌なじみが良くなった分だけ、職人としてのキャリアを積んでいるということ。初心に帰る作品でもあります。
取材を終えて
直販への切り替えと「おちあいさん」の推進という工房の大団円によって、本来なら染め職人として請け負わなくてもよい業務が発生してきているのも事実です。繁忙期の時はそれが負担となっても、自分たちの仕事がそれによっておろそかになることはないと、若い担い手のお二人からは自信もうかがえました。
見解に多少のずれがあったとしても、会社と社員の方向性が一致していれば、目的に向かって走り抜けていくことはできます。
伝統工芸士のタイトルもまたそうです。社としては宣伝にもなる一方で、ゆくゆくは伝統工芸士として独立し、次の伝統工芸士となる職人を育てる、そうしたサイクルを作り出したいと考えています。
染め職人であるお二人には伝統工芸士のタイトルにこだわる熱さはさほど感じられないものの、それのあるなしによって自分の仕事に対する情熱やプライドが変わるわけではないことを、その生き方で示してくれているようでした。清廉で名声に執着しない、ひょうひょうとした姿。これが職人のお二人から受けた印象です。
工房情報(2019年9月20日時点)
染めの里 二葉苑
所在地:〒161-0034 東京都新宿区上落合2-3-6
Tel. 03 (3368) 8133
Fax. 03 (3362) 3287
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